満ソ殉難記 第四款 初年兵の初陣記録
−極限の苦労を越えた自信−
左記の記録は、編者が第一二六師団、歩兵第二七八連隊第三機関銃中隊所属初年兵山口純彦氏(熊本市在住)より、当時の状況を聴取して纏めたものである。因みに同氏は、同連隊の掖河陣地攻防戦に参加将兵中、連隊玉砕の終焉を知る唯一無二とも云うべき生存者である。又記録中に出る和歌は、終戦直後牡丹江病院に入院中、まとめたものであることを付記しておく。
非常呼集 開戦時、私は平陽の兵舎に居た。六月末から連隊の主力は八面通付近の陣地構築に出かけ、第二大隊の大部は半載河付近国境最前線陣地の守りについていた。従って平陽兵営の留守番をして居たのは雨篭中尉以下極く僅かで、兵力にして二小隊位であった。当時私たちは中隊長から、四月の日ソ条約破棄でソ連の侵攻必至と聞かされていたので、相当緊張して訓練に励んでいたが、七月になって誰云うとなく、日本からソ連に仲裁を頼んだという話が広まり、それ以来稍々緊張感が少し緩んでいた。そんな中に、八日夜半、思わぬ喇叭に夢を破られた。
非常呼集だ。たしか三時半位だったろう。半載河方面から多数のソ連が侵攻して来て、死傷続出との知らせである。愈々本格の戦争が始まったと云うので、早速倉庫から新品の軍衣外套を貰い、小銃弾(三二○発共)、手榴弾(五発)を受け取った。大変な重さである。これが完全武装というものだろうが、これで戦闘が出来るだろうかと思ったりした。直ぐにでも第二大隊の国境方面に増援に行くと思ったが、どうもそうでないらしい。午前中敵機もやって来たが、何にもせずに行ってしまった。
愈々戦場へ 正午江藤少尉の指揮で、私たちの小隊は徒歩で出発する。なつかしい兵舎ともお別れだ。もう又見ることもあるまいと思うと、何だが後髪を引かれる。前線行きと思ったのに、どうも後方行きの様だ。何十キロの重荷の行軍は体にこたえる。夕方に西鶏寧駅に着き、夜になって乗車する。無蓋貨車である。だが、一時でも重荷から解放されて嬉しい。
夜半発車し、十日朝八面通近くで敵機の波状奇襲を受ける。戦死第一号が出る。初めて戦場に来た気分になり緊張する。直ぐ降車両側に散開する。敵機は三機で、執拗に反覆波状攻撃を繰り返す。爆撃と掃射。生きた心地はしない。心の中で念仏を唱える。一寸顔を上げると、八面通駅舎と近くの野積み軍需品が燃え上がっていた。
十日夕まで駅付近に居たが、一寸離れた八面通街は一日中爆弾掃射の洗礼を受け、死傷夥しいとの噂であった。
その晩、陣地のある高地に登った。その一角に着くとわが連隊の兵が居て、忽ち日本酒のふる舞いにあずかった。一、二合入る位の大杯で、続けて二杯呑みほした。腹にしみ渡ったその味は、三十余年後の手間も忘れられない。恐らくは、これ今生のお別れ盃であったろう。
転進また転進 間もなく私たちは、十日夜半又、江藤少尉の指揮で、遥か西方の掖河に向け後退することになった。戦況はどうなっているのか、初年兵の私たちにはさっぱり判らない。
十一日は一日中大休止なしで歩き続け、夜は豪雨に濡れながら歩いた。寝なしで腹ペコ、それに大雨の中、それにヌカルミ道の行軍と、条件が揃い、その一つ一つに堪えて行くことが出来ると、人間と云うものは、不思議と却って元気が出るものである。
十二日朝まだき仙洞駅近くの貨物廠に着き、ビール、缶詰摑みどりと云う場面に出くわした。だが話によると、この貨物廠もこのあと直ぐ火をつけるそうで、惜しくてたまらぬ気もするし、間に合って良かったとも思ったりした。同日午後、仙洞駅で貨車に乗るには乗ったが、間もなく南下中の敵戦車群が直ぐ横を通って行くので、下車散開伏せをした。
轟々と戦車の列の続きゆけば兵ら路傍に伏して動かず
十二日夜、やっと数駅先の樺林に着き、全員下車。牡丹江の市街が直ぐ目の下に見える。各所に火災が見え、御蔭で進路は明るかった。そこから歩いて、十三日朝やっと連隊主力の居る陣地に着きホッとした。
連隊の主力求むと越えて来し幾山河は兵炎の中