山口白陽の短歌2005.5.29更新

[凡父哀唱] 1925.2.17 長女みどり逝く

 病中篇

 

長病みにほほけてあれど名を呼べばいらふる子なり憎からめやも

子の病篤きにつれて事足らぬ家にいさかふ日のつづくなり

病み呆けし子が口もとのおぼつかな乳呑ませつつ妻は泣きをり

幾たびか否みし果にあきらめて苦き薬をのむ子よあはれ

 

 臨終篇

 

いとけなき手はおもろに冷えゆけりすべなく慓ふ父が手ぬちに

まなじりをつりて今かも生滅の境に狂ふ子は見がたしも

右の手は母に左の手は父にゆだねて今か息の絶ゆらし

夕ぐれを疲れて帰る門の辺に子が泣く声の今日も聞え来

泣きそ子よな泣きそ泣きそはつはつに父も涙を堪えてしをるに

帰り先づ病間に入れば泣きしきる子を抱きつつ妻も泣けるよ

今までも狂へりし子のはったりと動かずなりて身じろぎもせぬ

手触るれば触りの冷たし死したるは疑ひもなくなりてしか子よ

たまきはる命の絶ゆるきはまでも汝が死なむとはなど思ふべき

 

[老残] 

わが軍歌うたへる人ら戦場に死にたまひたる数は知らえず

わが希い遂げしいくばく生の身のいのち終らむ時は近づく

おぎろなき空にただよふ一ひらの雲の如くに消えむわれかも

柑子熟れ生垣青き家にして友は孤独の老いに籠れる

貧しきを耐ゆると強いて勝ちとるといづれか選む歳末の街

 

[真珠の雲] 

天皇を呼ばう人々まじろがず涙垂りつつわれは見をるに

うつし身とうべなひながら天皇を仰げる時に涙垂りにき

敗戦の国の天皇と思ふさへ涙せきあへぬわれなるらしも

まなかひに見れば白髪のそこばくもほくろもありて愛(かな)しき天皇

潮鳴りは間なく聞こえて天皇の台に上らす時近づきぬ

こころよく涙流るる群集の歓呼一斉に湧きあがる時

血につづく感情は殺しがたきかも天皇の前に涙わりなし

むらぎもの心たかまりておのづから湧く万歳はとどめがたしも

疲るれば涙もろきか奉迎の歓呼のたびに眼うるむは

ぜらにゆうむただに紅しも天皇を迎ふるここは天草の涯

[敗戦前夜] 

かくてまた今朝も明けつと顔洗ふわれに心の張ることもなく

台風の余波ざはめけるコスモスにとまるあきつの共に揺れおる

直線を折るが如くに逃げ去りしあきつのあとに秋の雲白し

あえかなるローランサンの桃色の乙女来て立つ秋風の窓

若きらが蔑すむ金はわれもまた若かりし日に蔑みし金

ぬば玉の闇商人が肥ゆる時われは牛肉の夢みつるかも

紙面ふと青みて来しに眸(め)上ぐれば汽車は青葉の峡に入れるなり

ヴァンゴッホの荒きタッチに焼跡の塀抜きん出て燃ゆる向日葵

かくのみに思ひつむれば生き難し触れで在り経る身は怖れつつ

朝戸出のわが素裸に触れもして三坪の畠の黍は伸びたり

厳しかる世を生き抜くと心張る妻の気負ひを寂しみてをり

転変の世を経つるらし老ひらくの女夫見てゐる池のさざ波(水前寺)

売上げの小銭丹念に皺伸ばし束ねし十円の尊きろかも(貸本屋「プチ書房」)

拭きつけし縁は小暗き緑葉の影を着て白き猫が寝てをり

秋風の朝の野道に立ち止まり煙草のマチをすりにけるかも

雨雲のしばし及ばず見放(さ)けたる築島も遂にかくろひにけり

月見草見ては悲しくなる時もある自らをうべなひてをり

乗合の人みな掛くる席ありて秋風の中にバス走り出づ

梅雨晴れに近き暑さや古城の楠の繁みは夏蝉の声

わが茄子の葉を食ひ荒らす二十一星てんとう虫はこやつぞおのれ

夜毎にささくれし本の表紙をば直す苦にせず貸本屋われは

波のひだ透す日射しは斑(ふ)となりて大き緋鯉の背に揺れてをり

寝不足の眼をいたはると本閉ぢて瞼をつぶる朝の電車に

コスモスの一とむら咲きてそよぎをり戦災住宅の庭何もなく

※戦災によって書斎は焼亡し終戦前までの歌稿も悉く烏有に帰した。本稿は終戦後最初の短歌作品として記念のため収録した。(『顧望』p219より)

 

[妻を悼む](昭和44年妻月子死去)

春逝くや死床の妻を看取る眼に

 

[もっこすの歌える](昭和45年1月〜6月『呼ぶ』誌上)

乾電池一本くれという我に売り遣わされたるぞ嬉しき

右左前は見ゆれどうしろから来て轢(ひ)くは詮(せん)なし

車轢(ひ)きガス爆発し機材落ち道行く我や静心(ごころ)なし

下手クソの書を見る時は筆墨をほめよといえど筆墨も拙く

長々と読んで簡単ながらちう祝辞はどれも似たりよったり

万博で日本の子らが踊る時ベトナムの子らは飢えと血の中

バス料金盗む乗員の穴埋めは乗客負担の料金値上げ

株暴落我れ関せずとうそぶくは株もたぬ我の負け惜しみのみ

アメリカが風邪ひけば日本は肺炎という心許(こころもと)なき経済大国

八百長の野球と知らず有頂天に手を拍(たたき)いしわれもその一人

新婚の旅で事故死を急ぐより偕老同穴(かいろうどうけつ)自然死を待て

山があるから登るというは分れども無理して死ぬる訳がわからぬ

アポロ13号つまづく空を歌いつつ東方紅(とうほうこう)が天翔りゆく

信念というはコチコチのことにして柔軟というは無定見のこと

政治家はウソ申告も通るちうウソの通らぬサラリーマンわれら

愛想よく話しかくれど運転手返事をせぬは近距離のゆえか

近距離はいやがると知れど乗り越して後戻りするヒマもゼニもなし

歩行優先信じて街をゆく人は命三つ四つ用意すべかり

横丁に無料駐車のマイカーがひしめきてわが散歩を沮(はば)む

事故、窃盗、はてはガードマン強盗とエスカレートする万博ニュース

保健薬はメーカーに効く肥料にて代金はもっぱら服用者負担

「とかく目高(めだか)は群れたがる」ちう皮肉ありわれも目高の一匹にして

十円安き野菜を買いに五十円足代を出す女房のアタマ

運輸次官英雄となり厚生次官ヤクザの如く威張る日本

抵抗は一時のことと高をくくる官民グルのタクシー値上げ

公道をわがもの顔に花植えて「折るべからず」は妙な立て札

有明の海に落ちゆく太陽を呼び戻すらし日立造船

美術館は一人の画家をつくるより大衆の眼を開くが本命

恋の邪魔、生活の邪魔再婚の足手まといと子を殺す親

財産の分け前が足らぬ道楽の金を出さぬと親殺す子ら

人間の格づけをするさかしらの叙勲は時に人を傷つく

じわじわと首しめてゆく公害は知らず文明に目くらむ人間

大阪で死んだ補償は千九百万水俣の命は四百万円

山路を歩みつつ思う人間の幸福は果たして文明にありや

肉に乳、魚に野菜に調味料水も空気も毒含むちう

狩野(享吉)博士春画を描くと驚く勿(なか)れ「人間」というは皆そんなもの

多ければ安くなるちう経済の原則が通らぬ米価問題

物見遊山のマイカー族よ心して糞は轢(ひ)くとも人間は轢くな

事故防止の最短距離は自動車の製造禁止とはいえそれも

出家遁世(とんせい)もできぬ世なればこの上は運をたよりに生きる外なし

新薬は速く効けども副作用命奪え元も子もなし

一年先も見えぬ政治を頼りにて十年先を賭けし農民

値上りは6分利息は5分という損もすべなき庶民の貯蓄

 

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