天草めぐり2005.3.28更新
1.表紙
2.目次
阿蘇と天草のコンプレックス
関門三角の明暗
夢ンごたる話の実現
欲と車の氾濫
天門橋は五橋随一
全町これ観光資源
殉教の島
五橋それぞれの異色
千巌山(せんがんざん)と高舞登(たかぶと)
天皇と赤崎鯛
切支丹の遺跡は続く
丸尾が丘に立って
本渡「現代版」
海外発展の気迫
史跡と風光の富岡
詩と歌と句と
白鷺温泉
白鶴の浜
伴天連の宿
牛深三度行きゃ
大関栃光の故郷
豊漁の島御所の浦
未開発の観光ルート
3.内容
昭和41年(1966年)の天草五橋完成の直後に書かれた紀行文(観光案内文)。熊本-宇土-三角-大矢野-松島-大浦-本渡-下田-高浜-牛深から深海・浅海を経て栖本・倉岳・竜ヶ岳・姫戸を巡る。それぞれの土地の風景・人情・歴史・文学などが要領よく解説される。
4.評
現在天草在住の管理人にとっては、「何てうまく文章をまとめる人なんだろう」という驚きしかない。天草各地の特色が「見てきたように」(取材には出かけただろうが、全ての土地を回ったわけではあるまいに)いきいきと描かれる。五橋ができた直後に天草旅行をしてみたかった、と思わせる。
こんな一節があるのは、いかにも白陽らしい。
-ついでに、前もって釘をうっておきたいが、かつての”からゆきさん(管理人注:東南アジアで売春する日本人出稼ぎ女性。戦前には非常に多くの長崎・天草出身の女性が「からゆきさん」として売られていった。『島原の子守歌』で”はよ寝ろ泣かんでおろろんばい、鬼池久助どんの連れに来らるばい”と謳われる「鬼池の久助」は当時の有名な人身売買の斡旋業者-いわゆる「人買い」-らしい。)”がわざわいして、天草の女性といえば、とかくエロティックに考えやすい先入観のあるのは不都合な話、からゆきさんが多かったという理由で、これを好色と結びつけるのはあまりにも論理が飛躍しすぎる。無責任なマスコミやクチコミの罪というべきであろうか。
“どこの烏も黒い”というが、人間の本性などというものは、どこへ行っても変わりはない。問題は”何が彼女たちをそうさせたか”にあり、それは要するに”生きんがため”にほかならない。円地文子の『南の肌』という作品にこんな一節がある。
「不幸なる天草女三人、シンガポールに集まって会食せり。食後故郷の子守唄を合唱して皆泣きけり。南十字星の輝く下、赤道直下の島々に、幾百幾千の不幸なる日本娘夜をひさぐなり。この不幸は南洋のみにあらず。日本の社会の生める不幸なり。夜は暗く長けれど、暁は必ずいたるべきを信ず」云々
そうだ、その長い夜が過ぎて、今、暁はやってきたのである。−
40年前当時、男だけで旅行にでかけるのは買春とほぼ同義。こんな時代にこんなことを言えるこの白陽という人、女にモテたのも無理はない。