あとがき

 

著者

 歩兵二七八連隊(通称八〇(はちまる)(さん)部隊)東満(とうまん)掖河(えきが)の丘で亡び去ったのは、所謂(いわゆる)終戦の翌日、形式的にはすべての戦闘が終わった(はず)の昭和二十年八月十六日のことであった。

 終戦のことなどもとより知らず、知らされず、九日以来圧倒的なソ連軍の侵攻の前に絶望的な戦闘を余儀(よぎ)くされ、遂には軍旗を焼き、連隊長は自決(じけつ)し、十六日の薄暮(はくぼ)に至り、部隊は一握りの兵を残して壊滅(かいめつ)して終わった。

 当時、この部隊の初年兵(しょねんへい)であった私は、機関銃(きかんじゅう)中隊(ちゅうたい)の一員として稜線(りょうせん)の草の根に文字どおりしがみつき、生色(せいしょく)を失いながら、部隊(ぶたい)壊滅(かいめつ)の地獄図絵の中に居た。「これは屠殺(とさつ)だ。屠殺(とさつ)以外の何ものでもない。」と鳴り止まぬ天地のどよめきの下で、灼熱(しゃくねつ)脳裡(のうり)に繰り返していた自分の姿は今尚(いまなお)髣髴(ほうふつ)として眼前(がんぜん)にある。

 この戦いに(かろ)うじて生き残った私は、その後一ヶ月近くを野山(のやま)にさまよったあげくソ連軍の捕虜(ほりょ)となり、再び北送、牡丹江(ぼたんこう)での一年余の収容所生活を送った。その間、アメーバ赤痢(せきり)や熱病、栄養(えいよう)失調(しっちょう)の為に入院退院をくり返し、当時としては身の不幸をかこったが、実はそれが幸いしてシベリア抑留(よくりゅう)をまぬかれ、万死(ばんし)に一生を得て、二十一年十月故山(こざん)の土を踏むことができたのである。

 (かろ)うじて生きはしたが、戦争は私にとって終生(しゅうせい)忘れ得ない痛手(いたで)となった。

 人間は環境によって、神ともなり獣ともなる。限りなく崇高(すうこう)な行為と心情が、限りなく卑劣(ひれつ)なそれと隣り合って一個の人間の中に同居していることを知った。又、人間が窮乏(きゅうぼう)と死の恐怖にまむかう時、()る者は如何(いか)にみじめに、()る者は如何(いかん)気高(けだか)くふるまうかということも知った。しかしながら、当時も現在も変わらず、もっとも強く感じることは、人間をこうした極限の状況におき、こうした試練に()わせることは、人間として決して許すべからざる(てい)のことであるということである。

 愚直(ぐちょく)な私にはこの当たり前の事さえ深刻な体験を経なければ(さと)り得ないことだったが、とにもかくにも私は生き得てこの事を知った。

 しかし、(ある)いは国境陣地(じんち)に、(ある)いは掖河(えきが)の山々に、(ある)いはシベリアの野に骨を埋め去った大方の人々にとっては、そのことはもはや知るにすべなく、知ったとて又どうしようもない。永久に(かえ)る日のない人々である。

心ばえのすぐれた、よい人々が、数多く死んだ。生きていたら事を()しえた人々が、そうでないまでも平凡に暮らし、平凡な幸せを周りの者に与え得た人々が。我ひとり生をぬすんだという贖罪(しょくざい)の念にも似た気持ちが、長い間私の口を重くして来た。

 戦後はや三十一年経つ。戦争体験の風化ということがよく言われる。満洲(まんしゅう)の、又シベリアの野に思いを残して死んだ若い人々のことがしきりに(しの)ばれる。決して死にたくはなかったであろう戦友たち。その人々に代わって今こそ口を開かねば、という気持ち私にこの歌集を編ませた。現在の平和が、どんな人々の(しかばね)の上に築かれているのかということを広く世に訴えたかった。読まれる方々の心に(いささ)かでも響くものがあれば、これ以上の幸せはない。

 この歌集を編むに当たって、身に余る序文を頂いた上、何かとお世話下さった熊本日々新聞社長島田四郎氏、表紙や扉絵に快く作品を使わせて頂いた浜田知明画伯、出版のことについて、親切にお引き受け下さったのみならず、いろいろと御指導頂いたサン・カラー理事長白石豊氏の御三方に心からなる感謝の辞を捧げて、あとがきとする。

 

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