(ばつ)

 

山口白陽

  純彦(すみひこ)入営(昭和二十年一月)

いふべきこと限りなけれど何事もいはで()かしむわが親ごころ

さりげなく月を語りて他をいはぬ()く子の胸は(はか)りがたしも

()かむ日の近づくままに日もすがら物書き急ぐ子をいとほしむ

子を近く()かしむる我や行軍(こうぐん)の兵の背中の汗は眼に()

()かむ日を明日にひかへて朝寝する子を(しか)らざるわれに負けをり

 

 前記の短歌は、純彦(すみひこ)応召(おうしょう)出征(しゅっせい)の前日書いたものだが、幸いに戦災を逃れて筺底(きょうてい)に残されたものである。

 同年七月家を焼かれた私は家族と共に赤星(あかほし)典太(てんた)氏の家に仮寓(かぐう)(八雲(やくも)記念館)したが、その翌年、彼は奇跡的に命を全うして帰ってきた。当時の憔悴(しょうすい)した敗残兵(はいざんへい)の姿もさることながら、苛烈(かれつ)な実戦場で()(ひし)がれた心傷痕(きずあと)はあまりにも深刻で、以来久しい間彼は笑いをもたぬ人間となった。

 もともと内攻的(ないこうてき)な文学青年であった彼は、その戦場体験を小説に書こうとしたようだったが、一部隊数人の生存者という(せい)(さん)な体験は手に余るものがあったのか、遂にペンを折ったようである。

 それが、以来三十年の今日になって、歌集の形で世に問われることは、その手に余る酷烈(こくれつ)膨大(ぼうだい)な資料を、三十年間煮詰めに煮詰めて(うん)(じょう)を重ね、精魂(せいこん)を傾けたものに違いない。

 兵隊の経験を持たない私は、子の眼を通じて生々しい極限の場に(さら)された人間の姿を、まざまざと直視する思いがあった。

 その評価は別として、何よりも有難かったのは、歌集の序文を(くま)(にち)社長の島田(しまだ)四郎(しろう)氏に頂き、装画を版画家浜田(はまだ)知明(ちめい)氏に仰いだことである。周知のとおり島田氏はその昔「ノンジャンの丘」において、浜田氏はエッチング「初年兵(しょねんへい)哀歌(あいか)」において、共に血肉を削る戦争の悲惨を親らの体験によって描いた人々であり、その迫力に満ちた文や絵は決して単なるセレモニーではない。これこそ純彦にとって至上の会心事であったようだし、私としてもこれに越すよろこびはないのである。ここ(あわ)せて心からの感謝を申し上げたいと思う。

 

 

葬りの丘表紙に戻る

山口白陽文学館受付に戻る