第一部 鎮魂の歌

昭和20年10月より、22年3月に至る間の作詠(さくえい)

  草を(つか)みて

()い寄れば草を(つか)める戦友(とも)の指(つか)みしままにこときれており

 

  (ごう)を掘る

銃剣(じゅうけん)は昨日に捨てつ銃剣(じゅうけん)(さや)にて掘るか今日の塚穴(つかあな)

銃剣(じゅうけん)(さや)にて掘れば掘り(がた)し掘り(がた)(ごう)をただひたに掘る

生き()べき生命(いのち)にあらず死ぬ時を我が掘りし(ごう)にひた待ちておる

 

壕を掘る日本軍兵士。使っているのは円匙(えんぴ)と呼ばれたシャベル。

日本軍の30年式銃剣。日本陸軍の代表的な小銃である三八式歩兵銃または九九式歩兵銃に装着する。「一軍の勝敗は吶喊最後の数分時」(軍歌「歩兵の本領」)とされ、歩兵を象徴する武器と考えられていた。

 

 

  肉攻行(にくこうこう)

飯盒(はんごう)(いい)(つか)みて(くら)いつつ今はた行かむ時迫りたり

飯盒(はんごう)も今は捨てたり死にに行く思いにくらべ何を残さむ

生き()べきすべ皆絶えて我が思いひしと(いだ)きぬ爆雷(ばくらい)一つ

この思い人に()いむと思わざり(すこや)けくあれ故里人(ふるさとびと)

肩に抱く爆雷(ばくらい)は重し草原(くさはら)の真夏の照りを(あえ)ぎゆくかも

 

炊事する日本軍。画面中央下がご飯を炊く飯盒。

 

  夏草の(ごう)

見はるかす夏草の野のただなかに我が父よ母よ(まぼろし)となる

牡丹(ぼたん)江掖河(こうえきが)の陣地ここにしてたらちねの親はついに(はろ)けし

()き捨てし上衣(じょうい)の胸の物入れの父母の写真(つか)()思う

()が捨てし(うり)の皮ぞも(すず)しみてひびわれし(くち)(いく)たびも吸う

(うべな)えどやすむすべもなし血の騒ぎ生きなば生きむ命を持ちて

今更(いまさら)に何をかあれとこの(きわ)にこれの(さみ)しみこの怒りぞも

大らかにあれと思えども人は知らぬ胸の(さみ)しさ極まりにけり

 

塹壕で敵戦車を待つ日本軍兵士。壕は「蛸壺」と呼ばれ、ベッドにも棺桶にもなった。

 

  戦車群(せんしゃぐん)

整々(せいせい)牡丹江(ぼたんこう)街道(かいどう)(つら)ね来る敵戦車群は()に光りつつ

あらがねを()に光らせて次々に敵戦車群は我に()向かう

次々に方向転換し戦車群我が砲撃の死角に入り行く

 

T34-85型。日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州に侵攻したソ連軍の主力戦車。第二次世界大戦の最優秀戦車といわれる。迎え撃った関東軍の戦車部隊は1日のうちに壊滅した。この戦車の進撃を阻止すべく、箱爆雷を抱えて自爆攻撃を仕掛ける「肉弾攻撃手」が編制された。

 

  戦闘(せんとう)

砕け飛ぶ弾丸(たま)のあふりにうち伏して友の(うめ)きをただ聞いており

我が頼む機関銃座のことごとに友の大方(おおかた)うち伏しにけり

三番銃破壊と呼ぶを聞いており命尽きたる今更(いまさら)にして

 

日本軍の92式重機関銃。著者は機関銃手だった。

 

 

  個々の死

末松一等兵腹を()たれたりひた狂いつつ血溜(ちだ)まりにいる

-末松政志

臓腑(はらわた)(いだ)き杉本上等兵(しば)し悩みて息絶えにけり

-杉本初喜

手を吊りし薮本上等兵硝煙(しょうえん)(はれ)れ行く時に(むな)しかりけり

-薮本義一

真額(まびたい)弾丸(たま)()られて(たお)れたる高島隊長におろおろといる

-中隊長 高島中尉

 

ガダルカナル島で戦死した日本兵。関東軍主力はソ連軍侵攻に際して戦いを避けて撤退し、歩兵二七八舞台は「殿軍」として優勢なソ連軍と直面した。作戦上「捨石」となった歩兵二七八部隊はガ島守備軍や南海の島の多くの守備隊と同じ運命を辿った。

 

 

  軍旗焼却

新しき軍旗なりしか今を焼く煙たなびく青空の(もと)

二七八連隊の軍旗忘れめや紫の(ふさ)我が忘れめや

焼き尽くす暇もあらせず束の間に旗も砕けつロケット弾に

 

日本軍の軍旗。西南戦争で軍旗を西郷軍に奪われた乃木稀介が一生の負い目としたように極めて大切なものであった。歩兵二七八連隊は軍旗を焼却している最中にロケット弾の直撃に遭い、連隊長以下幹部のほとんどが戦死し、壊滅状態となった。

 

 

  突撃を待つ

敵を思いサイパンを思い脈絡(みゃくらく)もなく我が母を思い末期(まつご)に悔いいる

携帯円匙(えんぴ)()を握りしめて(あきた)らずその(ひも)を腕に巻きつけて待つ

闘わむ武器もあらなく我が友の円匙(えんぴ)を借りて握りしめおり

−友、西村 堅

連隊本部伝令がおらび去りし突撃の(きわ)は今に迫りぬ

生き()べき命ならねば捨て(がた)き命を捨てて死ぬ時を待つ

 

第一次世界大戦でドイツと戦った日本にはドイツ領だった南洋諸島が譲渡された。米軍の反攻でこれらの領土も戦火にさらされた。サイパン島は「絶対国防圏」とされたが、米軍の圧倒的な戦力の前に守備隊は全滅し、多くの民間人も犠牲になった。「バンザイ岬」に追い詰められて投身自殺する邦人女性。

 

  月光(げっこう)の下に

小夜(さよ)()けて照らす月かげこときれし友の(まぶた)を閉じさせており

骨枯れて草も()うべしこの友に(また)()わめやとおろがみにけり

 

  (くさ)にひそむ

現身(うつそみ)の命を惜しみ日もすがらこの草かげにそよも動かず

ひねもすを草にひそみて丘の上の戦車の影に親しみにけり

この一日(ひとひ)探しあぐねて(ようや)くに戦車の響き遠ざかりゆく

威嚇(いかく)砲撃()を震わせて()みにけり夕光(ゆうかげ)長き草むらにいる

寝て仰ぐ草の葉末(はずえ)の青空に砲音(つつおと)(しば)し遠ざかりたり

 

ソ連軍の戦車随伴歩兵。肉攻手は攻撃が成功しても爆死を運命付けられているが、多くはこの随伴歩兵に倒されて戦車まで近づくことができなかった。

 

  草枕(くさまくら)

草枕(くさまくら)この夕光(ゆうかげ)の青空に命を惜しく我が独りいる

草むらに(こも)りてあれば捜索(そうさく)の戦車の響き遠ざかり行く

追われては昨日も今日も我が動かず敵の戦車の死角にひそむ

 

ソ連軍の車載歩兵(随伴歩兵)。ソ連の随伴歩兵は戦車に乗って移動した。何の防備も無い、標的になりやすい戦車に乗って移動するのであるから、ソ連軍歩兵の損耗率もすさまじいものであった。

 

  彷徨(ほうこう)

山に()ね里に出でてものを(かす)敗残(はいざん)の兵となり果てにけり

水飲むと川べりにして(たお)れたりこの山あいに骨となる人

白樺(しらかば)木皮(こはだ)()ぎて()べいつつ明日の命を言わぬ夜かも

友軍(ゆうぐん)の陣地たずぬと(いく)()さを昼に重ねてさまよい歩く

 

水を汲みに来て斃れた日本兵(写真はガタルカナル島)。いかに屈強な兵隊でも水を飲まなければ生きていけず、水を汲む際には無防備となるため、狙撃兵の標的となりやすかった。

 

  野路(のじ)の雨

辿(たど)りゆく野中(のなか)の道のたそがれて夜半(よわ)は雨さえ降りいでにけり

人影に()うことなしに辿(たど)りゆく野中(のなか)の道は雨となりたり

人影を怖れて辿(たど)野中(のなか)(みち)雨さえ我に降りいでにけり

 

  樺沢(かばさわ)二等兵

(うつつ)なき重傷(いたで)の友を背に負いてあわれ今宵(こよい)もさまようべしや

生き()えし二つの命かなしみてこの星空を辿(たど)りゆくかも

たまきはる命の限り共々(ともども)に行きむと願うを殺せというとも

 

火野葦平著『麦と兵隊』。同名の流行歌は東海林太郎が歌って大ヒットした。「友を背負いて道なき道をゆけば戦野は夜の雨」という歌詞がある。

 

  友を()

今生(こんじょう)に再び会わむ友ならめやいまわの(きわ)に我を許せかし

年老いて親にも似たる(なれ)なりし生きむとしてはそを(ののし)りし

 

  収容所(しゅうようじょ)にて

窓近く雪しみじみと降りにけり(よる)(しず)けく降りつもりけり

雲隔て海を隔てて年()けし母に()うべく今宵(こよい)かも()

(とら)われの夜半(よわ)()ざめのはかなさはめざめて(しば)(うつつ)ともなし

収容所の窓べによりて思うこと故里(ふるさと)の春の習俗(ならい)になずむ

粉雪(こなゆき)降る夜更(よふけ)(さむ)みペーチカの暗き()かげに動く人あり

 

ロシア・満州などで暖房に用いられたペーチカ。著者の父山口白陽は北原白秋に傾倒し、ペンネーム白陽も白秋にちなんだものといわれる。白秋の童謡に『ペチカ』がある。

 

 

  二十才(はたち)の友

秋陽(あきび)()牡丹江(ぼたんこう)病院の西側の(あら)き畑に我が埋めし友

 

ハルビン陸軍病院。ソ連軍の捕虜となった大多数の日本軍将兵は国際法を無視してソ連領内のシベリアに送られ、強制労働に従事させられたが、著者は感染症であるアメーバー赤痢に罹患したため、八路軍(中国労農紅軍)に引き渡され、牡丹江病院に送られた。

 

 

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