潔浄記2005.3.27更新

1.表紙

 -装丁:堅山南風

2.目次

 序  徳富蘇峰

 かく書かんずる(序に代えて)

 第一編 家

  ひとすじの道 この父を見よ 転機 家系図

 第二編 芽

  義士伝に泣く むっつり屋 頑張り屋 遠足 遺髪塔 つづりかた 負けじ魂 記念樹

 第三編 男

  鹿本中学 佐々木教育 寺本教育 敬して遠ざく 級長任命 ラッパ隊事件 榎田教諭 失われた時計

  帰ってきた心 男の中の男

 第四編 志

  菊池精神 一団の火 中川医師 禁制の本 青雲 海兵合格 脱臼 純情

 第五編 魂

  海軍兵学校 江田島精神 火と火 澄み徹る瞳 潔浄 ラグビー戦 自啓録

 第六編 熱

  遠洋航海 少尉任官 海の角力 大東亜戦争勃発 男の友情 生一本 障子抜け

 第七編 愛

  菊池千本槍 楠公と大石 佐伯家 許婚嫁がず 愛情の型 朝刊夕刊 決意の朝 御守七個

 第八編 情

  春寒 自決の刃 兄弟 婚約解消? 母と寝る 永訣 小母さん 軍神の部屋

 第九編 命

  命をもらう 都竹曹長 本懐 日本男児 武士のたしなみ 壮行会 最後のたそがれ

 第十編 名

  大戦果 敵も額づく 栄光 全貌現る 海軍合同葬 春日しずかに 賛仰の辞 永遠の安息

 付録

  遺稿 追憶果てなし 賛仰譜

 跋

 

3.内容

 かつて「軍神」とあがめられた松尾敬宇の伝記。

中佐は熊本県鹿本地方(現山鹿市)の出身。鹿本中学から海軍兵学校に進み、海軍大尉(二階級特進で中佐)として昭和17年5月、オーストラリアシドニー湾を特殊潜航艇で攻撃して戦死した。

この攻撃はオーストラリア人に恐怖や憎悪よりもむしろ尊敬の念を呼び起こし、松尾以下4名の乗組員はオーストリア海軍葬となった。シドニー要港部司令官グールド少将の次の発言(ラジオで公表された)がオーストラリア人の見方をよく示している。

「潜航艇のシドニー攻撃で戦士した日本勇士の葬儀を丁重な海軍葬とすることに、国内にかなりの批判がある。しかし、私はあえてこれを行う。あのような小さな潜航艇を操縦するには最大の勇気を必要とする。私とて機会があれば自由のために喜んで死ぬ覚悟がある。しかし、私は平時でさえ、あんな小さな潜水艦に乗ってシドニー湾を横断するのにはためらうことを正直に告白する。

勇気というものは、どこの国の独占物でもない。それはわが国だけでなくどこの国民も持っているのである。今、わが国民の中にこれら日本勇士たちが払った犠牲の1000分の1を払う覚悟を持っている者が何人いるだろうか。」

 さらに、8月17日、4人の遺骨は日豪両国の戦争中にもかかわらず、日英交換船カンタベリー号によって日本に届けられたのである。

 

4.評

本書の内容を現代から批判するのは簡単であろう。

事実白陽はこの書の執筆と「第六師団行進曲」の作詞により戦争責任を問われ、戦後正式に公職に就くことはなかった。しかし、戦前・戦中、特に対米開戦後は日本全体が軍国主義の熱に浮かされていたことを考えながら読むと、白陽独特の目が見えてくる。「軍神」松尾の伝記でなく、人間松尾の生の記録である。

近年何かと美化されることが多い「特攻」であるが、「特攻」がまさに行われ、それが神格化されつつあったその当時に、当事者である「軍神」が出撃前に母親の布団にもぐりこんで乳児のようにその乳房にすがりながら泣き寝入りしたことを描いた文学が他にあるであろうか。

荒木精之をはじめとする熊本文壇の多くの文士が神風連を過大評価する中で、白陽は「時代錯誤の跳ね上がり者に何の意味もなく殺された鎮台の百姓兵が哀れだ」という意味のことをいつも漏らしていたという。

 

戦死後の松尾の母の短歌

-君がため散れと育てし花なれど嵐のあとの庭さびしけれ-

 

山口白陽著作集に戻る

山口白陽文学館受付に戻る